①嵯峨・嵐山界隈

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嵯峨・嵐山 裏街道を行く ――運営委員 殿西 幸弘――

 

 嵯峨・嵐山界隈には、広く知られている史跡名勝の他に、あまり知られていない歴史の痕跡や文化、ユニークな人々の生き方や活動の現場等が数多くあります。その数々をご紹介してゆきます。   ………………………………………………………………………………

【第1回 嵐山城】

●嵐山にお城があった!!

 渡月橋から上流を向いて左手、亀山公園側から見ると衝立のように真正面に立ちはだかる稜線の、一番高く見える峯が標高381.5mの「嵐山」です。この頂上に幻の城と伝えられる城がありました。しだいに「戦国」の様相を加えていた15世紀の末、山城国守護代となった香西元長(こうざいもとなが)によって明応6(1497)年頃に築城されたと伝えられています。

●管領細川家の分裂

管領家の細川政元は自身に継承者がいなかったことから、進められて前関白九条政基の子を養子に迎え澄之(すみゆき)としました。ところがその後に考えを変えて今度は阿波の細川義春の子を後継ぎとして迎え澄元(すみもと)としました。元々、一風変わり者であった政元の行動は増長し、家臣はこれを黙認している訳がない。「政元を隠退させて、早く阿波の澄元に家督をさせたい」として薬師寺元一、赤沢朝経(ともつね)らが西岡衆らも組織して土一揆を起こさせ、自らは淀城(旧)に立てこもりました。しかしこの時は政元は計画を事前に察知して淀城を攻撃し元一は敗れて捉えられ、京都の一元院で自殺しました。永正3(1506)年四月、澄元が阿波の軍兵を率いて上洛すると情勢は急に緊迫化する。いまや澄之と澄元の対立がはっきりと表面化したのです。この上洛軍の主将が阿波細氏の家宰の三好之長(ゆきなが)でした。

 その後、政元はこの年から、大和・紀伊方面へ、そして翌永正4年には若狭から隣国の丹後へと兵を進めていました。この時は政元の武将の香西元長も共に戦に参じたのです。そして5月末に家督の澄元と家宰三好之長らと共に帰京しました。京に帰った香西元長らは、三好之長らが澄元を守って、まるで自分らを相手にしていないのをみて「主人の奇行が治らない様では細川の家も長くはない、それに澄元の代になったら三好之長等が権力をにぎるであろう。今こそ主人政元を殺し、丹波にいる澄之をもりたてて管領家に継承させれば我らが天下の権をとれる」と考え、家臣に命じて主君を殺してしまったのです。

主君政元暗殺に成功した香西元長等はさらにじゃまな澄元も殺そうとして澄元の館へ押し寄せたがこれには成功せず、三好之長は澄元を守って近江へ落ちて行きました。直ちに元長等は澄之を迎えて細川管領家の家督に据えましたが、近江に逃れた澄元等は勢いを盛り返し京へ攻め上がって、城下にあったと思われる澄之の居館、遊初軒を囲み澄之を討ったのでした。香西元長等も相次いであとを追って戦死しました。「多聞院日記」永正4年8月1日の条に、この時城は炎上した、とあります。(資料:中央公論社日本の歴史巻 112433

 

●“はげしかりし 嵐の風は音たえて ~ ”

こうして永正41507年細川澄之は討たれて、細川澄元方の幕政となり、三好之長に権力が集まりました。

それでは私の祖先でもあったであろう、この頃の山城国の農民らはどの様な生活をしていたでしょうか。香西元長には嵐山城の構築のために人夫としてかり出され、澄元・之長の天下になるや、今度は澄元や之長の館や堀づくりのために徴発され続けました。

「細川大心院記」や「瓦林政頼記」には“京中は このほどよりもあふりかふ 今日もほりほり 明日もほりほり”“はなざかり いまは三好と思ふとも はては嵐の風やちらさん”“はげしかりし 嵐の風は音たえて 今をさかりのみよしののはな”と、下界の農民らがその時々の権力者に駆りたてながら、いやいや堀を掘っていたであろう様子が落首として残されています

  ところで、香西氏は讃岐国の、三好氏は阿波国の武士です。彼らの手で嵐山々上に城が築かれ、そこで生き、そして焼かれました。しかし我々地元の農民にとって彼らは他国よりの侵入者にすぎなかった。権力者はやがては滅びることを彼ら農民は知っていたのでしょう。香川県や徳島県から来られた方はこの様な史実に思いをはせながら嵐山を観光していただくと、また違った感慨が生まれるのではないでしょうか。

当さらんネットの副理事長・太田映司氏(故人)が、昭和48年にこの城跡を訪れて調査し、本丸跡、物見櫓の礎石、土橋、堀切、曲輪土塁、石垣等を発見し概略図を作成されています。私にとっては、子供の頃から何度も父から聞かされ、夢にまで見た“幻の城”をまで調査されていたとは驚きです。

それでも、この城については、まだまだ何も解明されていません。城郭の構造や規模、父から聞かされた“白米流し”の戦術、澄之の居館であったとされる遊初軒の場所、嵐山城の出城跡といわれる中腹の張り出し地、嵯峨史に“法輪寺の後山に眠る”と記された香西元長の墓など・・・これらの残された多くの謎があるのです!

 

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千鳥ケ淵
千鳥ケ淵

 

 【第2回 千鳥ケ淵】

 

●嵐峡ゾーン

 観光客で賑わう渡月小橋南詰から大堰川右岸沿いの小径を上流に向かって歩く。緩やかだった小径はしばらく行くと急な登り坂となり、薄暗い小峠を越えて岸辺 近くまで下りきると、そこには穏やかな川面と渓谷の美しさに囲まれた静寂の世界が広がっている。前方には新装なった旅館「星のや京都」の正門が、左手には 角倉了以によって建立された大悲閣千光寺に登る石段が見える。この一帯の大堰川の淀みは昔から「千鳥ヶ淵」と呼ばれ、外界とは隔たった神秘的な趣をもった 場所であり、また、京の貴族文化によって育まれた一級のリゾート地でもあった。私は今この一帯を「嵐峡ゾーン」と呼ぶ。

 この地に残る数多い伝説の中の一つ。平家の武者斉藤時頼、後の滝口入道と建礼門院に仕えていた女横笛は恋に落ちる。が、時頼は主君への忠義を欺いたことを 後悔し、出家することを誓う。横笛は、ひと目でも逢いたいと時頼に何度も告げるが、時頼は修行の妨げになると云って逢ってくれない。横笛は悲しみのあまり 千鳥ヶ淵に身を投げてしまう。この時頼と横笛の悲恋物語は、子供の頃に祖母から聞かされた「お姫様が悲しみのあまり千鳥ヶ淵に身を投げました。姫は大蛇に 姿を変え、対岸に向かって川面を泳ぎ、岸にたどり着くと急な山肌をするすると這い昇って、その跡が蛇谷となりました」という話と根を通じているだろうか。

●大堰川

 底深い美しさと魔物が棲みそうな神秘的な凄みを緑色の水に湛えた水面は一見穏やかに見えるが、川底は深く起伏激しく、流れも一様でなく底では渦が巻いてい る。丹波の山々をくぐり抜けた保津川の急流が、京都盆地の端、嵐山に顔を出したとたんに大きな堰によって勢いを抑えられ瀞となっているのである。だからここだけは保津川でも桂川でもなく大堰川という名を持っている。

「ここを初めて訪れたとき、外界とは隔たった、潜在的な力を感じる特別な場所であることが、到着したその瞬間に理解できました。一級のリゾート地というの は圧倒的な『非日常感』が重要と考えているが、その条件を充分に備えている希な環境です。夕暮れともなると宿泊客だけがここを独占するまさに幽玄の世界に なるのです」と、旧嵐峡館を星のや京都として再生させた星野佳路氏は、再生を決断した時の気持ちを建築雑誌「日経アーキテクチュア」で語っている。大悲閣 千光寺と共にこの“奥嵐山・嵐峡ゾーンの魅力”がもっと認知されることを期待する。

●夢の掛け橋

 NPOさらんネットは、その嵐峡に歩行者専用の小さな吊り橋を架けることを目標とした「嵯峨嵐山をこよなく愛する地元住民のグループ」として誕生しまし た。左岸・嵯峨と右岸・嵐山が嵐峡の奥でつながり、この地域の周遊性と広がりを強化すると同時に、渓谷と吊り橋が一体となった優れた景観を創出する事を夢 みたのです。実現には、法制、技術、景観、資金等の多くの困難な課題が有りますが、計画遂行への強い意志を捨てずに、次の一歩に進めたいと活動しています。

 

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               写真①                 写真②         

写真③
写真③

【第3回 嵯峨野・嵐山界隈の生活ゾーンに残る昔人の痕跡】       
 観光の名所から一歩裏側へ入った人々の生活ゾーン。ここにも知る人ぞ知る歴史的な場所や文化のなごり、人々のユニークな活動の痕跡が数多くあります。今回は地域に残る「忘れられた橋」の一部をご紹介します。

橋の上に住まいが?
 古代から長期に渡って何度となく日本に渡来し、広い地域に定着していった秦氏。その一分派・松尾族によって西暦600年代に拓かれた灌漑用水路の一ノ井用水は、1947年(昭和22)から大改修工事が始まる。曲がった流れは緩やかになり、石積みはコンクリートにされていった。昔から建っていた長屋は下を水路に貫かれ、いつの間にか橋の上の建築物となった(写真①)。両側の住宅は建替えられたが、いったん壊すと川の上の建築は許されない事情から、当時の長屋の一角がこの様に“保存”された。以前の古い橋は埋められて付近の地中に眠っている。

誰が渡るのかな?無用の小橋
 一ノ井用水と同じ歴史を持つ東一ノ井用水。ここに二本の小橋が架かっている。写真②はその昔、水路の左手に在った松尾大社の神職・山田家の表門に至る小橋である。
 右手の道は古道である東の海道(街道)だ。私が子供の頃、この村は稲穂がゆれる田園地帯が広がり、その後方には今も北隣に残るもう一つの山田家とともに、大屋根を連ねる二つの屋敷がった。そして後方には燃えるような松尾山の峰々。その美しい印象は今も私の脳裏に焼き付いている。
 写真③は、②より更に狭い幅50センチほどの小橋だ。ここもかつて周辺の住宅地はみな田んぼだった。横に新しい橋が出来ても当時の田んぼ出入り用の小橋が何故か残った。

幻の山田橋
 その昔、桂川の渡月橋と松尾橋の中間にもう一つ橋があった。右京区梅津の梅宮大社の脇を通る古道から西京区嵐山の古道・東の海道をつなぐルートである。古地図を見ると、安永7年(1778)~元治元年(1864)では「ワタシ」「舟渡し」(写真④)、明治9年と13年では「山田橋」と記載されている。明治22年の地図では、川の上に延びる点線だけとなっている。
 昔から嵐山と梅津はともにに葛野(かどの)と呼ばれ一つの広い湿地帯であったが、西暦800年代に入り、平安京造営や治水への配慮から勅が発せられ、僧道昌らが堤防を築き流路を変えた事により、今のように東西に分断された。それでも葛野(かどの)郡という地名と往来の道は近代をへて今日まで残ったのである。

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  大悲閣から千鳥ヶ淵を臨む

      大悲閣遠望


 

【第4回 角倉一族と大悲閣千光寺】

●吉田・角倉一族
 角倉家の本姓は吉田という。近江佐々木源氏の一流で、宇多天皇の末裔佐々木秀義の六男厳秀から近江で吉田を称しました。その後医家となるものが多く、徳春の時代に京都嵯峨に居を構え土倉を営み、そこで屋号ともいえる角倉を名乗り、医家系統が吉田、土倉関係などが角倉を名乗ったのです。そして5代目の了以と6代目素庵の時代になって更に、日本国内各所の土木水利事業や海外異国との貿易事業や文化的事業へと拡大していくのでした。

      

●大悲閣千光寺

 第2回でとりあげた保津川の京への出口、大堰川「千鳥ヶ淵」。前方には、旅館「星のや京都」の正門、左手には石柱を立てた門と急な石段が見えます。ここは古くからいわれている「嵐山温泉」の場所です。

 大悲閣千光寺は、この急な石段から始まる山道を登り始め、嵐山の山群を構成する前峰の中腹に、保津川の末流に出来た瀞である「大堰川」と、その先の葛野平野を一望する位置にあります。角倉了以が保津川開鑿工事に協力した人々の菩提を弔うために創建したものです。
 天文23年(1554)、5代目として生まれた了以は、海運や朱印船貿易を押し進め事業を広げる一方で、河川を開削し物流を革新する事を思い嵯峨と丹波を結ぶ保津峡(大堰川)を踏査し、慶長11年(1606)に幕府の許可を得るとわずか五カ月で、この困難と思われた工事を完成させたのです。更に嵐山と二条を結ぶ西高瀬川、木屋町二条と伏見を結ぶ高瀬川を完成させ、京都における東西・南北の物流大動脈を開いて京都大阪間は勿論遠く瀬戸内海を含めた地域へと経済圏を拡大し、その後の産業・文化の革新的な発展へとつなげました。後には琵琶湖と京都を水運で結び20万石の良田を作るという、遠大な計画をも構想していたと言われています。
 了以は晩年になって、この眼下に大堰川を臨み都を一望する嵐山の中腹に、嵯峨中院にあった千光寺の名跡を移して大悲閣千光寺として創建し、開削工事の犠牲者を弔うと共に、ここを隠棲の地としたのでした。

 

●夢の掛け橋へ
 角倉了以の事業に見られる先見性と合理精神、計画遂行への強い意志。そして、素庵はこれらの父の精神を受け継ぎつつ、林羅山、本阿弥光悦、俵屋宗達をはじめ多くの知識人・芸術家・茶人との交流や、「嵯峨本」「本朝文粋」といった出版を通じて、江戸時代中期以降の文化的素養を示し、京商人の先駆ともいえる近世最高の教養人の一人であることを示しています。国民がある種の閉塞感に襲われている今日こそ、共感と敬慕の念を抱くことではないでしょうか。

 さて我ら、NPO法人さらんネットは、渡月橋上流に歩行者専用の小さな吊り橋「夢の掛け橋」を架けることを目標とした「嵯峨嵐山をこよなく愛する地元住民のグループ」として誕生しました。角倉了以・素庵父子の様な計画遂行への強い意志を持って、次の一歩を進めたいと活動しています。

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