②アラカルト

-1- 嵯峨面 ~京工芸の最高峰~ 藤原孚石さん

藤原孚石さん
藤原孚石さん

毎年315日、嵯峨釈迦堂(清涼寺)で、およそ600年前から続く「涅槃会」が行われる。その時、境内の狂言堂で「嵯峨大念仏狂言」が開催される。その狂言で使われる面を模して作られたのが「嵯峨面」。

かつて昭和初期まで、嵯峨に住む文人家などが作って地元の人々が門前で厄除けのお土産として売られていたが、戦後その伝統は失われていった。

それを復活させたのが、先代藤原孚石さん。水尾のお寺の尼さんを訪ね聞いたり、僅かに残る文献を頼りに研究を重ね、「嵯峨面」を復活

学生時代から父の姿を見ながら、仕事を手伝ってきた2代目の孚石さん。日本画家(藤原敏行)として活躍しながら、嵯峨面を創っている。

絵画という平面の世界と、面という立体の世界。絵画は長期間かけて構想を積み重ねてゆくが、面はその場その場で遊べるし、楽しんで作っているという。

父からのアドバイスは「お前はお前の面を創れ」。いろいろ試行錯誤を繰り返し、オリジナルの嵯峨面を次々と創作。種類も十二支をかたどったものや、嵯峨に因んだ大堰川の「河童面」、岩田山の「知恵猿面」等30種類以上。

孚石さんの嵯峨面は、ご本人の人柄がにじみ出ているように表情が優しく、温かみがある。素材は和紙だが、その質の違いによって雰囲気が違ってくるという。和紙は古い書籍の紙を使うので、古本屋さんに頼んでいるが最近はいい紙が少ないとのこと。

石膏の型にその和紙を何層にも張り重ね、数日間乾燥させ陰干しをして出来た土台に、絵の具で色を着ける。柔らかな優しい風合いの表情が描き出されている。和紙との兼ね合いで、ひとつひとつ微妙に味わいが違う作品が出来上がる。ファンも多く、中には数十年前に掲載された雑誌の記事を頼りに、自宅の工房まで訪ねてこられた御夫婦もいる。

次代は31歳の御子息が継ぐ。嵯峨面の技法は残すが、やはり「自分なりのモノを創れ」と、期待をかける。

      

             さらん 5号より (運営委員 河合康博)

     

 

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-2- 昭和11年の「嵐山観光」

今から78年前、昭和11年発行された1冊の本があります。

<天下の名勝嵐山は、大堰川の清流その麓を流れ、山水相映じ風光明媚眞に一幅の書画なり。>で始まる写真をふんだんに使った和綴じ本「観光の嵐山」(発行所:嵐山保勝会)です。

 紹介されている四十数か所の中には、「愛宕山スキー場」(愛宕神社の後方約5丁)や「鵜飼(うこう)橋」(山陰線保津峡駅新設と共に保津峡の渓間に架す、付近探勝の新コースです)<現在の橋は二代目で、トロッコ保津峡駅前に1956年竣工>等、今では忘れ去られているモノが見受けられます。写真の説明書きには英訳も添えられており、当時から外国人をも意識して編集されていたことがわかります。

名物と土産品の中には、「野宮竹製品」「桜もち」等に並んで「愛宕産砥石」「知恵の餅」「清滝川のあなご」「嵐山土産松風」等も紹介されています。交通と遊覧機関の紹介では、(名所遊覧の便を計り、各電車、遊船連絡の回遊割引券を発売す)と各機関連携して全体の誘客増進を進めていたことがわかります。

興味深いのは、「料亭と旅館」の広告。(設備に万全を期し親切と丁寧を信条として、観光の趣に一層の光彩を添う)として掲載しています。ほとんどのお店は営々と今も続けています。

また、「嵐山御遊覧は京阪電車にて」(大阪天六より四十四分!急行十五分毎)。阪急電車の前、京阪電車が「新京阪線」として運営していた時代の広告です。桂から嵐山の間に「上桂」駅、「松尾神社前」駅。京都の終点は「京阪京都」駅で四条大宮まで。その当時、阪急電車は「十三」から「神戸」まで。JR線は省線。

当時、愛宕山にホテルや飛行塔のある愛宕山遊園地、スキー場、テント村などが設置されて賑い感じさせる愛宕電車<嵐山から愛宕神社へ向かう参詣路線>の広告も興味を引きます。

全体を通して、嵐山の観光は嵯峨野・嵐山の社寺、大堰川の遊船、愛宕山地区のリゾート施設が複合して集客していたと考えられますが、愛宕電車は大東亜戦争中に全線が不要不急線に指定されたことから廃線となりました。廃線と同時にホテルなどの観光施設もすべて閉鎖され復活することなく自然に還ることとなり、愛宕山地区のリゾート施設は無くなりました。

 昭和11年といえば、226事件が起こり騒然としている中、こういう立派な和綴じ本が発刊され、嵐山の観光PRを積極的に進めておられた先達に敬意を表します。

 

               さらん 6号より (運営委員 河合康博)