サロンdeさらん(談話室)

 

💛会員の方や運営委員また会員以外の方に、嵯峨・嵐山に関連したことや、それ以外のことについて語っていただくスペースです。

 

 掲載ご希望の方は、事務局までメールでお申し込みください。

(公序良俗に反しない限り掲載させて頂きます。ご希望なら「さらんネット

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 嵐山に想う事

 

 今、私の手元に古い写真が1枚あります。人物のバックには渡月橋と嵐山の山が写っています。今の嵐山と変わらない佇まいが漂っています。1939年生まれの私が生まれる前に、祖母が姉妹で嵐山を訪れ記念に撮った写真ですから約90年前のもと推察されます。兵庫県の丹波篠山に住んでいた彼女達が時々京都の娘夫婦を訪ねるのが習慣になっていた様ですが、京都に来た時は必ずと言って良いほど嵐山を訪れていたらしい。

 

 =嵯峨・嵐山地域は、古くから開かれた観光の名所であり、年間1000万人以上の人が訪れます。季節毎に繰り広げる自然のパノラマと、人とのハーモニーが素晴らしい所です。歴史や文学に登場する場面も多数あります。長い長い年月がはぐくんだ豊な自然環境と歴史の上に、嵯峨嵐山の今があります。ここにしかない過去を大切に、これからも嵯峨・嵐山が魅力的な場所であり続けなければならない。=

 

これは私共が運営するNPO法人さらんネットの趣意書に記載されている一節です。

  京都の伝統文化と言えば、陶磁器・友禅染・西陣織・京料理など数えきれないが何れも本物の味、奥の深さや歴史の重みを感じさせるものばかりです。

 

 気を付けて良く観察すると伝統の中に最近のものを取り入れるなどして新鮮さも忘れていません。1963年の東京オリンピックに併せて開業した東海道新幹線は現在も無事故を継続中です。スピードアップや乗り心地の改善などの新しいニーズに応え乍ら技術面での改良、日常の保守点検安全管理の徹底が記録の更新という結果に繋がっています。伝統を創るためにはプロの力量が欠かせません。

 

 一見何も変わっていなくても、維持管理の為多くの裏方を務める方々のお世話になっているのです。私たちの活動の目的の一つは、嵐山の山岳風景の維持と保存です。この目的に沿った具体的な維持管理は桜の保全や新木の移植・紅葉やカエデの修復、赤松の復活・常録樹の間引きなど、経験による匠の技が求められます。これからも、ニーズに合った活動を活性化させて、この地域の観光のあり方や自然保護に取り組んで参りたいと思います。

                        NPO法人さらんネット

                        理事長 大前 皓生

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松尾山古墳群について

 

天空の墓地・松尾山稜線

 京都盆地の西方に、北の端から南に連なり、四季を通してその美しい姿を見せている松尾山。この松尾山自体が古代から続く一つの神聖な墓域となっているのをご存じでしょうか。     

 この山地は、標高400m近くの峰が北から南へと連なっています。京都盆地を向く東側斜面が急傾斜である事もあってか、古墳は、大半が最も見晴らしの良い山頂や尾根筋、山腹の高所に築かれていて、現在45基が確認されています。形式は円墳の横穴式石室型です。これは高句麗の影響が、5世紀頃に百済伽耶諸国を経由して日本にも伝播したと考えられ、入り口をふさぐ閉塞石を取り除くことで何回でも埋葬できる。家族の墓として利用しやすいため広く築造され、6世紀末から7世紀前半にかけて大流行したのでした。

 これは、共同墓地的な性格をもっていて、集落を経営するような有力な構成員が台頭したことを示しています。高度や眺望などの立地の差異は、被葬者の階層性を反映したと考えられ、桂川下流の平野を眼下に治め、平野部から仰ぎ見た場合は視覚効果が最も優れた場所となる。この様な位置を占める被葬者は族の中での優位性が想定されます。また尾根筋など、最高所を避けて少し下がった地点に立地する被葬者はその族内での位が想定されるのです。大半の古墳の主体部は、すべて横穴式石室であったと見て良く、内部に土砂が充満し、石材が露出しています、

 

もとの嵯峨野

 狭隘な保津狭から放たれた桂川が、京都盆地を最初に潤す地域が嵯峨野です。

 嵯峨野といえば、高燥な台地が広がる桂川左岸の右京区一帯を思い起こしますが、これは今の狭義の嵯峨野であって、昔は右岸の西京区嵐山・松尾地域も嵯峨野だったのです。昭和50年(1976)までは左岸右岸共、同じ右京区であり、更に、もとの嵯峨野は全て旧葛野郡に属していたのでした。

 もう一つは、川の流れを挟んだ両岸共、同じ渡来系氏族・秦氏が住み着き様々な面で繋がっている事を示す、数々の遺跡や祭事、祭神、謂れなどがあることです。

 

今、私が今思うのは

 これを書き終えて、宮崎 駿のえがいた“天空の城ラピュタ”のことを思い出しました。何時も、偉大な我々の祖先達が、窓から見える松尾山々上から見守ってくれている気がするのです。

                            さらんネット 運営委員

                            殿西 幸弘

 

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